リンク:記事一覧 [元記事] Israeli Crimes Against Humanity: Remembering the Sabra and Shatila Massacre Global Research, March 21, 2018 URL:https://www.globalresearch.ca/israeli-crimes-against-humanity-remembering-the-sabra-and-shatila-massacre/5545969 この記事を読んでください。著者によれば、現代中東歴史上での最悪の残虐行為の一つです。 この記事は、2016年にグローバル・リサーチで初めてクロスポストされました。 [訳者注] 他にも同じ記事は多数あるが、グローバル・リサーチの記事を取り上げた。 グローバル・リサーチは主流メディアに比べれば信頼できる記事を書いている。 1982年9月16日、イスラエルと同盟したレバノンのキリスト教徒民兵は、イスラエル軍の監視の下、 シャティーラと隣接するサブラーののパレスチナ難民キャンプ入り、世界中に激怒を引き起こす大量虐殺を始めた。 翌1日半で、3,500人のパレスチナ人とレバノン市民、ほとんどは女性、子供、そして高齢者が殺害された。 現代中東歴史上での最悪の残虐行為の一つだった。 ニューヨーク・タイムズは最近、 虐殺の前と最中のイスラエルと米国の当局者間で行われた新たな議論の詳細を含む特集記事を発表した。 それらはアリエル・シャロン国防相が率いるイスラエルの当局者が、サブラーとシャティーラの 住民の安全に関する懸念を断固拒否し、いかにアメリカの外交官を欺いていたを暴露した。
■1982年6月6日、イスラエルはレバノンへ大規模な侵攻を開始した。 それは当時、レバノンを拠点とするパレスチナ解放機構を破壊するか、 大幅に弱体化させることを考えていたイスラエル国防長官アリエル・シャロンによって計画されていた。 シャロンはまた、イスラエルの右翼レバノン・キリスト・マロナイト同盟、 ファランヘ党に率いられる傀儡政権を設立することを計画していた。 ■イスラエル軍は、ベイルートの首都まで前進した。そして市の西側を包囲攻撃した。 そこにはPLO本部、シャティーラと隣接するサブラーのパレスチナ難民キャンプがあった。 ■8月のイスラエルの西ベイルートへの一週間の血に塗られた攻撃は、国際的非難を引き起こした。 それはイスラエルの侵略に「青信号」を与えたと非難されたロナルド・レーガン米大統領府を含むものだった。 米国が仲介した停戦合意の下で、PLOのリーダーと14,000人以上の戦闘員が国から撤退した。 そして数十万人のパレスチナ民間人の安全を米国は書面で保証した。 米国海兵隊は、撤退と安全を監視し保証するために多国籍軍の一員として配備された。 ■8月30日、PLOのヤーセル・アラファト議長は、パレスチナ自治区に拠点を置く残りの パレスチナ人の戦闘員とともにベイルートを出発した。 ■9月10日、海兵隊員はベイルートを出発した。4日後の9月14日、イスラエルのファランヘ党同盟の リーダー、バシール・ジェマイエルが暗殺された。 ジェマイエルは、占領しているイスラエル軍の監視下で、レバノン議会により大統領に選出されたばかりだった。 彼の死はイスラエルの国家計画に大きな打撃を与えた。 翌日、イスラエル軍は停戦協定に違反し、西ベイルートに移動し占領した。 大虐殺
■9月15日水曜日、イスラエル軍は西ベイルートにあるシャティーラのパレスチナ難民キャンプと 隣接するサブラー周辺を包囲した。 翌9月16日、イスラエル兵士は約150人のファランヘ党民兵をサブラーとシャティーラに入れた。 ■ファランヘ党は、残忍さとパレスチナ市民に対する残虐行為の歴史で知られており、 レバノン内戦前はPLOとその左派系およびイスラム系レバノン同盟の苦々しい敵であった。 激怒したファランヘ党民兵は、間違って、ファランヘ党の指導者ジェマイエルがパレスチナ人によって 暗殺されたと信じていた。彼は実際にシリアの工作員によって殺害された。 ■次の1日半の間に、ファランヘ党は言語に絶する残虐行為をし、3500人ものパレスチナ人とレバノンの民間人、 そのほとんどが女性、子供、年寄りに対し、強姦、手足切断、殺害を実行した。 後にシャロンは、ファランヘ党が市民に危害を加えることを知るすべがなかったと主張した。 しかし米国の外交官が、なぜ停戦協定を破り西ベイルートに侵入したのか理由を知りたいと要求した時、 イスラエル軍の参謀総長のラファエル・エイタン(Rafael Eitan)イスラエル軍の参謀総長の ラファエル・エイタン(Rafael Eitan)は、「ファランヘ党の狂った復讐を防ぐため」だったと述べ、 その行動を正当化した。 イスラエルのメナヘム・ベギン首相は、虐殺の前日9月15日、モリス・ドレイパー米大使に、 イスラエルが西部ベイルートを占領しなければならないと語った。 「さもなくば、組織的虐殺が起きる可能性がある」。 ■殺害が開始された直後、サブラーとシャティーラを包囲するイスラエル軍の兵士たちは、 一般市民が殺されたことに気付いたが、それを止めることは何もしなかった。 代わりに、イスラエル軍は夜間、空に照明弾を発射し、ファランヘ党のために暗闇を照らし、 虐殺の2日目に援軍がこの地区に入ることを許可し、多くの犠牲者の遺体を処分するためにブルドーザーを提供した。 ■2日目、9月17日金曜日に、レバノンのイスラエル人ジャーナリストが、サブラーとシャティーラで 大虐殺が起きたという報告を、シャロン国防相に電話で知らせた。 ジャーナリスト、ロン・ベン・イシャイは、後に回想した: 「(シャロンは)自宅で眠っていた。彼は目を覚まし、私は言った。 「聞いて下さい、キャンプで殺害と虐殺の話がありmasu。多くは将校それについて知っており、 私に語りました。もし彼らがそれを知っているのなら、全世界がそれについて知ることになります。 あなたはまだそれを止めることができます」。 私は実際には虐殺が24時間前に始まったことを知らなかった。 私はそれが始まったばかりだとと思って、彼に言った 「見てください、私たちはまだそれを止めさせる時間があります。何かしてください」。彼は何もしなかった。 ■金曜日の午後、殺害が始まってから約24時間後、エイタンはファランヘ党の代表者たちと会った。 イスラエルの情報機関関係者によると、「(参謀総長エイタンは)ファランヘ党の軍の声明と 現場での彼らの戦場での行動から肯定的な印象を受けたと表明した」、 続けて「明日午前5時にまでファカニ(Fakahani)南の空のキャンプを掃除し続ける 、 その時間には彼らはアメリカの圧力のために行動を停止しなければならない」と語った。 ■土曜日に、アメリカ大使モリス・ドレイパーは、シャロンに激しいメッセージを送った: 「虐殺をやめなければならない。彼らは不道徳です。キャンプ内の将校が死体を数えています。 あなたは恥じているはずだ。状況は不快で恐ろしい。彼らは子供を殺している。 あなたはその地域を完全に管理しており、その地域の担当者だ」。 ■ファランヘ党員は最終的に土曜日の午前8時頃にその地区を去り、多くの生き残った男性を、 サッカースタジアムで尋問するために連れて行った。 イスラエルの諜報機関は捜査を行い、捕虜の多くをファランヘ党に引き渡した。 ファランヘ党に戻された男性のうちの幾人かは、後に処刑されたと判明した。 ■ファランヘ党員がサブラーとシャティーラを出発してから約1時間後、最初のジャーナリストが現場に到着し、 何が起きたのかについて最初の報道が外の世界に届き始めた。 死傷者数 ■30年後でも、虐殺で殺された人数の正確な合計はまだない。 犠牲者の多くはファランヘ党によって墓地に集団埋葬されており、レバノン当局が調査する政治的意思はなかった。 ■イスラエルの公式調査であるカハン委員会は、イスラエルの軍事情報の評価に基づき、 700人から800人が死亡したと結論付けた。 ■大虐殺後の最初に現場にいた人々の一人だったベイルートに拠点を置く英国のジャーナリスト、ロバート・フィスクの 調査によると、パレスチナ赤十字は死者数を2000人以上としたと結論づけた ■彼の著書サブラー&シャティーラ:イスラエルのジャーナリスト、アノン・カペリアーク(Amnon Kapeliouk)は、 大虐殺の調査で3000〜3500という最大値に達した。 余波 イスラエル ■国際的な激しい怒りの後、イスラエル政府は調査委員会、カハン委員会を設置した。 その捜査では、シャロン国防長官が大虐殺に「個人的責任」があることが明らかになり、解任が勧められた。 ベギン首相は、国防大臣の地位を解任したが、シャロンは、無任所大臣として内閣に残った。 彼は、ベンジャミン・ネタニヤフ首相の任期中に外相を含むその後のイスラエル政府で 数多くの閣僚を務めることになった。ほぼ20年後、2001年3月、シャロンはイスラエルの首相に選出された。 ■2001年6月には、虐殺の被害者23人の弁護士が、世界のどこでも犯された戦争犯罪で起訴できる法律の下で、 ベルギーの裁判所でシャロンに対して訴訟を起こした。 ■2002年1月、1982年の侵略行為の際に、ファランヘ党の指導者とイスラエルの主任連絡役であった エリー・ホベイカは、ベイルートの車爆弾で殺害された。 ホベイカは虐殺の責任があるファランヘ党民兵を率いていた。 そしてベルギーの戦争犯罪裁判で、イスラエルの首相だったシャロンに対して証言する用意があると発表した。 ホベイカを殺した犯人は見つからなかった。 ■2002年6月、ベルギーの裁判官は、シャロンに対する戦争犯罪告発を却下した。 彼がベルギーの裁判に出廷しなかったからである。 ■2006年1月、シャロンは重症の脳卒中を起こした。彼は生命維持装置で昏睡状態にある。 米国 ■PLOが出発した後に残された一般市民の安全を保証した米国にとっては、大虐殺は深刻な困惑であり、 その地域の評判に甚大な損害を与えた。 アレクサンダー・ヘイグ国務長官が、イスラエルにレバノン侵攻に対して「青信号」を 出したと多くの人々に信じられていた事実は、損害をさらに大きくした。 ■大虐殺が発生中、レーガン大統領は海兵隊をレバノンへ送り返した。 丁度一年後、2台の大型のトラック爆弾がベイルートの兵舎を破壊し、241人のアメリカ軍兵士が殺されることになる。 それはレーガンに米軍を撤退させることになった。 パレスチナ人 ■パレスチナ人にとっては、サブラーとシャティーラの大虐殺はトラウマの出来事で毎年追悼式が行われている。 生存者の多くは、サブラーとシャティーラに住み続けている。生計を立てようと奮闘し、 虐殺の思い出に悩まされている。今日まで、誰も起こった犯罪に対する正義に対面していない。 ■パレスチナ人にとって、サブラーとシャティーラの大虐殺は、何百万人もの無国籍パレスチナ人の脆弱な状況と、 その地域や世界中で直面し続ける危険性を強く悲劇として思い出させる事件である。 |