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ヒズボラはイスラエルをどのように敗北させたか 2006.10.13

最終更新日:2018.05.23


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[元記事]
How Hezbollah Defeated Israel
by Alastair Crooke - Mark Perry October 13, 2006
URL:https://www.counterpunch.org/2006/10/13/how-hezbollah-defeated-israel-2/

[著者紹介]
アラステア・クロック(Alastair Crooke)とマーク・ペリー(Mark Perry)は、 ロンドンの紛争フォーラム(Conflicts Forum)の共同設立者で、政治的イスラムへ開放することを目的としたグループである。 クロックは、欧州連合上級代表ハビエル・ソラナの中東問題顧問であり、ミッチェル委員会のメンバーとして、 第2のインティファーダ(パレスチナ人の対イスラエル抵抗運動)の原因を調査した。 ペリーは、ワシントンDCを拠点とする政治顧問であり、米国の歴史に関する6冊の本の著者であり、 ヤセール・アラファトの前個人顧問だった。



ヒズボラはイスラエルを打ち負かすか?


空軍が失敗したことを達成するため、地上戦を開始するというイスラエルの決定は、躊躇しながら無計画に行われた。 イスラエル国防軍(IDF)は、紛争の2週間目にレバノン南部への侵攻を行った。しかしイスラエルの軍事指導部は、 地上部隊を配備する時期と場所、そもそも配備するかどうかさえ決めていなかった。

一部では、いつ、どこに主力地上部隊を配備するか否かについて軍隊が優柔不断だった原因は、 空軍が勝利を主張するか否かであった。イスラエル空軍(IAF)は、 もう一日かそこらで成功すると主張し続けた。この優柔不断のため、地上戦がいつ行われるか、 あるいは実際に起きたか否かについて西側メディアの報道は明確ではなかった。

イスラエルの上級将校は、地上攻撃のタイミングは、実際には自分たちが判断できなかったし、 厳しく秘密にされていたと記者会見で話を続けた。 また、国境を越えてすでに侵入していた小規模の国防軍部隊が経験したことに躊躇した。 レバノン南部で作戦中の特殊部隊は、7月18日、イスラエルを見下ろす最初の稜線で ヒズボラの部隊が粘り強く戦っていると指揮官に報告した。
レバノン国境付近 マルン・アル=ラス(Maroun al-Ras) 黄色の旗はヒズボラの旗

この時点で、エフード・オルメルト首相は政治的決断を下した:彼は、ヒズボラを撃退するために イスラエル国防軍の全力を配備しようとした。 彼の主席補佐官が停戦と多国籍軍の配備を受け入れるイスラエルの意向を示したのは同時である。 オルメルトは、イスラエルは最後の手段以外には国連軍の配備を受け入れるべきでないと決定した。

最初に、イスラエルは、北大西洋条約機構(NATO)軍を受け入れると述べた。 この戦略に沿って、イスラエル予備軍が7月21日に召集された。 突然の招集(国防軍はまず空襲でヒズボラを倒し、それが失敗した場合、予備軍を召集せずに正規軍を使う)は、 予備軍の初期配備を急がせまとまりのないものにした (繰り返すと、イスラエルは、紛争中に予備軍を召集しなければならなくなると思わなかったか、 それともずっと早い時期に召集すべきだったということらしい)。

さらに、予備役召集の決定は、通常、最初に召集の通知を受ける予備役上級士官を驚かせた。 予備役の召集は無秩序に行われ、予備役の後方支援の「尻尾」が予備役の展開から24〜48時間遅れていた。

7月21日の部隊召集は、ペンタゴンの軍事戦略家にとっては、イスラエルの戦争が うまくいっていないという明確な兆候だった。 それは、なぜイスラエルの予備軍が、必要な装備なしで、一貫した戦闘計画なしに、 そして戦闘を続けるのに必要な弾薬を持たずに、前線に到着したかを説明するのに役立つ。 (紛争の間、イスラエルは予備軍に適切な支援を提供するために奮闘した: 食糧、弾薬、さらには水の供給さえ、割り当てられた北部の配備地域に部隊が出現してから 全面的に24~48時間遅れた)。

この影響は、軍のオブザーバーによって直ちに理解された。元イスラエル軍司令官の一人は、 「イスラエル軍は準備ができておらず、だらしなく、士気阻喪している」と指摘した。 「これは私たちが以前の戦争で見たような自慢の国防軍ではなかった」。

オルメルトの政治的計略に沿って、国防軍の目標であるヒズボラの全面的打倒も大幅に縮小された。 「私たちの軍事目的と政治目標の間には一本の線がある」とイスラエルの旅団将軍の一人である イド・ネフシュタン准将が予備軍召集の翌日に述べた。 「目標は必ずしもすべてのヒズボラのロケットを破壊することではない。 我々がやるべきことは、ヒズボラの軍事ロジックを混乱させることである。 これはまだ数日の問題ではないと言いたい。

敵の「軍事的論理を混乱させる」ために戦争をするという軍事戦略の提示は、極めて奇妙なものであった。 ネフシュタンの発言は、「何のための戦争なのか」と国防軍の地上指揮官に冷ややかな印象を与えた。 イスラエル空軍がヒズボラのイスラエル都市へのロケット攻撃を阻止できなかった一方で、 7月19日から21日にかけてイスラエルに向けて発射されたロケット弾の数は、これまでのどの時期よりも少なかった (7月19日はごく少数、7月20日は40発、7月22日は50発程度だった)。

また、7月22日には、米国が初めて軍事的に対応した日でもある。 21日の深夜、ホワイトハウスはオルメルトと国防軍から大量の精密誘導弾の提供要請を受けたが、 これは空軍が開戦時にヒズボラの軍事的資産を大幅に破壊するという使命を果たせなかったことを物語っている。

その要求はすぐに承認され、弾薬は7月22日の朝からイスラエルに発送された。 ペンタゴンの高官は、イスラエルが戦争の最初の10日間で大部分の弾薬を消費したことを意味するので動揺した。 標的に対する膨大な消費、それはイスラエルがヒズボラの軍需品の戦術的爆撃を断念したことを示唆し、 レバノンのインフラに猛攻撃加える戦略であった。 この戦略は、第二次世界大戦中に米英がドイツの66の主要な人口集中地区を破壊したが、 ドイツの士気や軍事力には目立った影響を与えなかったため、うまくいかなかった。

しかし、ペンタゴンには不満はほとんどなかったが、元将校の一人は、イスラエルへの米軍需品の配備は、 1973年の第四次中東戦争の頂点でのイスラエルからの同様の要請を暗示していると指摘した。 「これはただ一つのことを意味している」と、元将校は言った。「彼らは綱渡りしている」。

米軍幹部は、イスラエルの対応に強い懸念を抱いていたにもかかわらず(その懸念は報道されていないだけで、 米空軍の上層部にまで及んでいた)、その意見を公にすることはなかった。 1973年の戦争で、イスラエルが武器の輸送を要求したことを批判して、 当時の統合参謀本部議長ジョージ・ブラウン将軍が辞任したのには理由があった。 ブラウン将軍は、アメリカの武器や兵器がイスラエルに送られていることに激怒した。 同じ頃、アメリカのベトナム司令官たちは、東南アジアでの戦争で物資が不足していると抗議していた。

イスラエルとヒズボラの戦争中に目立って沈黙していた現在の統合参謀本部議長のピーター・パースは、 歴史を理解し、敬意を表し、黙っている。 しかし、統合参謀本部と上級軍指揮官だけが、イスラエルの実績を心配している唯一の米国の関係者ではなかった。 新しい武器が(スコットランドのプレストウィックを経由して)イスラエルへ空輸されている間も、 情報当局は、戦争開始日の初期評価を実施していた。 イスラエルの空襲にもかかわらず、アル・マナーがまだベイルートで放送中であった。 イスラエル空軍はレバノンの他の主要ネットワークの放送周波数帯を破壊したのだが。 (これは戦争を通じて真実をだった - アル・マナーは決して放送を中止しなかった)。 イスラエルの空襲は、テレビ局の放送を止めることすらできなかったのなら、どれくらい効果的だったのか?
レバノン国境付近 マルン・アル=ラス(Maroun al-Ras)
イスラエルの予備軍の召集は、すでにレバノン南部で戦っている軍を支え、地上攻撃を激しくすることを意図していた。 7月22日、ナスル旅団のヒズボラ部隊がマルン・アル=ラス(Maroun al-Ras)でイスラエル国防軍と市街戦を戦った。 イスラエル国防軍はその日の終わりには町を奪ったと主張したが、それはなかった。 戦闘は血まみれだったが、ヒズボラ戦闘員を撤退させられなかった。 ナスル旅団の兵士の多くは、イスラエルの攻撃を待って数えきれないほどの日を過ごしていた。 そして、ヒズボラのイスラエル国防軍の通信を傍受する能力のために、 イスラエルの兵士たちはよく防御された部隊にぶつかった。

イスラエル国防軍の分遣隊は、反撃に出くわしながら街の西側に向い、防衛軍の側面攻撃に失敗した。 ナスル旅団の3人編成の特別ハンター・キラーチームは、軽量の対戦車ミサイルで戦闘中にイスラエルの装甲車をいくつも破壊した。 「彼らがこれをやろうとしていることを知っていた」と当時、疲弊したイスラエルの少尉、 イライ・タルモア(Ilay Talmor)は言った。 「これは、彼らが言う彼らの領土だ。誰かが私たちの国に来ても同じことをするだろう」。

イスラエル国防軍は、数千人の予備軍を召集にもかかわらず、その侵攻は「限定範囲である」と主張し続けていたが、 国防軍の大隊が国境の南側に集結し始めた。 イスラエル政府のアビ・パズナー(Avi Pazner)上級報道官は、我々はレバノンの侵略の準備していない」と述べた。 その後、国防軍はマロン・アル=ラス(Maroun al-Ras)を南レバノンでの「最初の足掛かり」と呼んだ。 「空軍、砲撃、地上戦の圧力の組み合わせは、侵攻し占領しなければならない地点に到着することなく、 ヒズボラを追い出すだろう」とパズナー報道官は述べた。

敵軍を追い出すことと街へ侵攻し占領することの違いが設定され、米国軍事専門家への明確な信号は、 国防軍は街に入ることができるが、占領することはできないということだった。 米軍内で訓練された米軍将校は、イスラエル国防軍の南レバノンへの侵略と、アメリカ市民戦争中の ペンシルバニア州ゲティスバーグでのロバート・E・リーの南部連合の血なまぐさい攻撃を比較した。 リー将軍の中尉は、「そこに行くことができます。問題ありません」、「そこにとどままることが問題です」と述べた。

戦闘後、ヒズボラ司令官の報告では、イスラエル国防軍が国境地域を完全に確保したことはなく、 マルン・アル・ラス(Maroun al-Ras)は決して完全に奪取されなかったことが確認されている。 ヒズボラは、イスラエルがやったように、予備軍を召集する必要性を感じなかった。 「戦争全体は3,000人の部隊のヒズボラ1旅団によって戦われ、それ以上ではなかった」と地域の軍事専門家は言った。 「ナスル旅団は戦争全体を戦った。ヒズボラはそれを強化する必要性を感じなかった」。

レバノンからの報告はこの点を強調している。驚いたことに、ヒズボラの指揮官たちは、 イスラエル軍が十分に組織され統制されていないことに気付いた。 レバノンのオブザーバーによれば、基準に達していた唯一のイスラエル軍部隊はゴラニ大隊であった。 イスラエル国防軍は、「雑多な寄せ集め」だったと、米国のスラングを深く知っている将校がの一人が報告した。 「しかし、それは40年間、ヨルダン川西岸とガザで女性や子供たちにゴム弾を発射していたことの結果である」。

イスラエル国防軍の司令官は、彼らの部隊の実績に当惑させられ、最も良く訓練された正規の兵士の間でさえ、 規律の兆候がないことを指摘した。予備軍はさらに悪く、イスラエル国防軍の指揮官は戦闘を躊躇した。

7月25日、オルメルトの要求した目標から後退し、ヒズボラを破壊する戦略は全力で実行されていた。 イスラエル国防相のアミール・ペレツ(Amir Peretz)は、これらの知らせを連絡し、 イスラエルの現在の目標はレバノン南部に「安全保障区域」を作ることだと言った。 彼の言葉には脅威が伴った:「フェンスを守る多国籍軍がなければ、 我々は安全保障区域に近づく者に向かって発砲し続け、彼らは傷つけられることを知るだろう」。

イスラエルがヒズボラを破壊するとの主張は全く突然消えてしまった。 NATOだけが国境の平和維持部隊として受け入れられるという主張も同様に消えた。 7月25日、イスラエルはレバノン国境のヒズボラ「中央部隊」の指揮官アブ・ジャファールが、 国境に近いマルン・アル=ラスの村でのイスラエル軍と「交戦」で殺害されたと報道した。 報道は真実ではなかった。アブ・ジャファールは戦争終結後に一般市民のコメントをした。

ビント・ジェブル(Bint Jbeil)

その後、7月25日、コンドリーザ・ライス米国務長官がエルサレム訪問中、 イスラエル軍は「ヒズボラのテロ首都」と呼んだビント・ジェブル(Bint Jbeil)への道で戦った。 ビント・ジェブルの戦いは9日間続いた。しかし、それは紛争の終わりまでヒズボラが掌握していた。 その時までに、町は破壊された。ヒズボラ戦闘員は空襲と砲撃の繰り返から生きのびることができ、 最悪の空襲と砲撃の間は地下壕に退却し、イスラエルの部隊が後続攻撃で街を占領しようとする時だけ現れた。

ヒズボラの戦術は、ベトナム戦争の開戦期に北ベトナム軍が行った事を思い思い出させるもので、 北ベトナム軍の指揮官が「爆弾を切り抜け」、小部隊でアメリカ人と戦う必要があると言った。 ベトナムの指揮官は、これらの戦術を説明で「ベルトバックルを掴む必要がある」と言った。

7月24日、レバノンでの迫りくる失敗のもう一つの兆しとして、イスラエルは、レバノン南部での 「ヒズボラ砲座」と呼ばれるものに対して、初めて何1,000ものクラスター爆弾を散布した。 クラスター爆弾は、もし悪質ならば、戦闘ツールとして効果的であり、 NATO(ロシアと中国も同様)のすべてのメンバーを含むそれらを使用する国々は、 一貫して使用を禁止する国際協定に加盟することを拒否している。

それらを使用する最も責任ある国家は、しかし、散布後の 「子爆弾」の不発率を減らすために 「二重信管」にしている。米国の大統領ビル・クリントン政権時代に、ウィリアム・コーエン国防長官は、 米国のクラスター爆弾を二重信管化すること、不発弾率の高い備蓄爆弾の段階的廃絶に合意した。 これらの不発弾率を14%(一部の見積もりはもっと高い)から3%未満(一部の見積もりはもっと低い)することを意図した。

イスラエルがこれらの爆弾を使用したことの調査はまだ完了していないが、 イスラエル国防軍は一重信管弾を散布したようだ。 イスラエルの最近の報道によると、砲兵はレバノンの村々に子爆弾を敷き詰めている。 それは火力の可能な限りの「無差別」使用の定義に近い。

イスラエルの爆弾は、二重信管化されていない古い米国の備蓄から購入された可能性があり、 米国はこの無差別な標的化に共謀している。 そのような結論は、7月22日にイスラエルに弾薬を再補給する時系列に合っているようだ。 イスラエル国防軍は、急いてこれらの爆弾ばら撒いて、レバノンのクラスター爆弾危機を作り出した。 レバノンはまだ苦しんでおり、それは7月24日に始まった。

7月26日、イスラエル国防軍の関係者は、ビント・ジェブルの戦いでの過去24時間は 「レバノン南部で戦いで最激戦日」だったとと認めた。 午前中にヒズボラから町を奪うことに失敗した後、イスラエル国防軍司令官は、 エリートのゴラニ旅団を送ることを決定した。 午後の2時間で9人のゴラニ団団の兵士が殺され、22人が負傷した。 イスラエル国防軍は、午後遅くに、エリートの空挺旅団をマルン・アル=ラスに配備した。 ナスル旅団の部隊との戦いは3日目だった。

ケイバー(Khaibar)-1ロケット
7月27日、イスラエル政府は、部隊がこれらの都市を奪取できなかったので、 さらに3個予備師団、計15,000人の部隊の召集に同意した。 しかし、7月28日までに、イスラエル空軍がヒズボラのロケット攻撃を止める試みに失敗したことが、 いかに深刻であったかが明らかになった。 その日、ヒズボラはアフラ(イスラエル北部の都市)に命中した新しいロケット、ケイバー(Khaibar)-1を配備した。

7月28日、イスラエルの諜報の失敗の重大さはついにイスラエルの民衆が知ることになった。 同日、モサド当局は、彼らの評価によれば、ヒズボラが軍事能力の大幅な低下を被っていないとの情報を漏らし、 さらにヒズボラは数カ月間にわたり紛争を継続できるだろうとのの情報を漏らした。 イスラエル国防軍は同意せず、ヒズボラが深刻な被害を受けたと述べた。イスラエル諜報機関のに最初の亀裂が現れ始めた。

米国の専門家もイスラエルの戦略と能力に疑問を抱き始めていた。 控えめなブルッキングス研究所は、フィリップ・H・ゴードン(この危機でヒズボラを非難した)の論評解説を出版した。 「問題は、ヒズボラがこの危機に責任があるのかどうか、イスラエルが自衛の権利を持っているのかどうかを問わず、 この特定の戦略(継続的な航空攻撃)がうまくいくかどうかである。 ダメだろう。航空攻撃で、何1,000もの小型、移動式、隠蔽された、簡単に補給できるロケットを排除することは、 不可能であり、ヒズボラを無力化することはできない」。

ゴードンの論評解説は、イランの核施設を標的とするホワイトハウスの命令の場合に、 自らの航空計画を潰そうとしていた人数増加中の軍将校の見解を反映している。 「米空軍がレバノンとのイスラエル戦争に興奮しているという共通の誤解がある」と、 ペンタゴンの高官にアクセスできる中東の専門家が語った。 「彼らはあきれ返っていた。彼らは自分の力の限界をよく知っており、どのように悪用されるのかを知っている」。

「彼ら(米空軍将校)にはイスラエルがレバノンで本を捨てたように思えた。 これは外科手術ではなく、正確ではなく、確かに賢明ではなかった。鋼鉄で国を覆っても、勝利は望めない」。

冷たく激しい多くの戦争は、イスラエルの空襲と地上戦の誤謬を指摘している。 ヒズボラは紛争前に1,8000以上のロケット弾を隠した。 これらの場所はイスラエルの空爆に対して強化され、空襲で容易に生き残った。 ヒズボラ関係者は、発射からイスラエル空軍が移動ロケットを特定し戦闘機を差し向けるまでの時間を90秒と計算した。 ヒズボラのロケットチームは何年もの熱心な訓練を通じて、60秒以下で移動発射装置を展開し、 発射し、安全に隠すことを学びました。 その結果、イスラエル空軍の航空機とヘリコプター(イスラエルが自慢するよりはるかに少ない)は、 ヒズボラのイスラエルへのロケット弾攻撃を止められなかった (「イスラエルは全面的な災難から3機のヘリコプターが離れようとしている」と米軍将校がコメントした)。

隠蔽してあるヒズボラのロケット発射機
ヒズボラはイスラエルのにロケット弾約4,000発を発射した(より正確には、確かではないが、 4,180発のロケットを発射したと計算している)。 ロケット弾の備蓄を14,000まで減らしたが、少なくともさらに3カ月以上戦争を遂行するのに十分であった。

さらに、より重要なことに、ヒズボラの戦闘員は献身的で訓練されていることが証明された。 情報機関を使ってイスラエルの歩兵の進入を正確に特定した。彼らはイスラエル最高の戦闘部隊の同等であることを証明した。 場合によっては、イスラエルの部隊は戦場で敗北し、突然の退却を余儀なくされるか、 部隊を救うため航空支援に頼らざるを得なかった。 戦争の終盤でも、8月9日に、イスラエル国防軍はマージェイルン(Marjayoun)、 キィヤム(Khiam)、キラ(Kila)の村での戦で予備軍兵士15人が死亡し、40人が負傷したと発表した。

ヒズボラのミサイル
ヒズボラ防衛軍は、イスラエル装甲軍にも犠牲を払わせた。イスラエルがやっと停戦に合意し、 国境地帯からの撤退を開始したとき、40台以上の装甲車が残っていたが、 ほぼすべてがAT-3「サッガー」対戦車ミサイルで巧みに破壊された。 「サッガー」はNATO名で、ロシア製の車両搭載または人手で戦闘配備する有線式第2世代の 9M14 Malyutka(マリューツカ)または「リトルベイビー」である。

射程距離3kmのサッガーは、イスラエルの戦車を破壊する非常に成功したことを証明した。 イスラエル装甲軍の指揮官を心配させたに違いない事実は、 ヒズボラが配備したサッガーミサイルが大部分は古いバージョン(1973年に開発された)だった事で、 さらに現代的なバージョンでは、もっと簡単に隠蔽・展開でき、より大きな弾頭を搭載できる。 イスラエル国防軍司令官は、1973年の「第2世代」バージョンに対してイスラエル国防軍が 装甲軍を守れなかったのだから、より現代的で洗練され、 より致命的なバージョンに対してどう自らを守るか疑問にを感じているに違いない。

停戦の実施に先立ち、イスラエルの政界は、イスラエルの空挺団をリタニ川沿いの主要地域に「降下」させる決定をした。 この決定は明らかに国際社会に、国連軍の任務範囲をリタニ南部から拡大すべきであることを説得するために行われた。 そのような主張は、イスラエルがレバノンの一部からリタニ川まで確保したと信ずることができない限り、できなかった。

かなりの数のイスラエル軍がこの目標を達成するためにリタニのちょうど南側の主要地域に空輸された。 その決定は災害につながった。イスラエル軍の大部分は、すぐにヒズボラ部隊に包囲され、 停戦が成立しなかったことで決定的に打撃を受けた可能性が高い。 政治的決定は退役したイスラエル国防軍の幹部を怒らせ、その1人はオルメルトが広報目的で軍を使い 「軍隊を小突き回している」と非難した。

おそらく、イスラエルの軍事的失敗の最も説得力のある印は、死者と負傷者数だろう。 イスラエルは現在、約400〜500人のヒズボラ戦士を殺し、自軍の損失ははるかに少ないと主張している。 しかし、より正確な統計は、イスラエルとヒズボラの死傷者がほぼ同等であったことを示している。 シーア派(そしてヒズボラ)が殉教者のために名誉ある埋葬を許可しないことは不可能である。 だからこの場合、それは単に葬儀を数えるだけの問題である。 イスラエル側の死亡者数にほぼ等しい180以下の葬式がヒズボラ戦士のために開催された。 レバノンの最新情報によると、南部のシーア派殉教者の葬式数は、正確に184と集計できるようになったという。

しかし、ロケット、装甲車、死者、負傷者など、どのように数えても、 ビズボラのイスラエルに対する戦いには決定的な軍事的、政治的勝利が与えられなければならない。 たとえそれがそうでなかったとしても(明らかにそうではない)、 7月と8月の34日間にわたるヘスボラのイスラエルに対する戦争の全面的な影響により、 この地域に政治的な地震が起きた。

ヒズボラがイスラエルを軍事的に敗北させたのは決定的だった。 しかし米国の政治的敗北、それは紛争中に無条件にイスラエルの側に立ち、紛争を終わらせるのを拒否したことは、 破滅的でこの地域における米国の威信に永続的な影響を与えた。

反シオニストユダヤ人の代表団は、レバノンの国境町クファ-キラにあるファチマの門を訪問。



[訳者注] 戻る=>page top

この記事は少し古いが、次のSakerの記事で参照している重要な記事と思われるので翻訳した。
戦争挑発屋 ザ・サーカー 2018.05.05

なおオリジナルの記事には画像は1枚もない。これでは戦場のイメージすら分からないので、 適当な画像を追加した。